私が作曲をする“理由”は、ストックや即興で生まれるアイデアを吐き出して音源化するためです。
私が作曲をする“目的”は、自分自身の表現です。
…と、妙な書き出しですが、私が作曲する目的など考えたことがなかったので、ここに来て考えてみたのですが、思いついた目的は自分自身の表現、つまり「己のため」でした。
昔は、他人を元気にしたいとか、他人との関係を円滑にしたいとか、音楽を何かのために利用する意味合いの目的も伴っていたなと感じます。そんな中で、最初から今現在まで消えずに残っている目的は「自己表現」になります。
自己表現と言っても、自分自身からしか生み出せない創作物を大切にしたいということであって、何かで目立ちたいという気持ちは、さほど持ち合わせていません。
私は、和を尊ぶことをヨシとされた昭和時代に育った人間なので、己のためという目的を掲げることに、出所不明な抵抗感がありました。
確かに、人々が集うところの組織・会社・行政などは、己(組織)のために事を進めると、一時的に良い目にあったとしても、長い目で見ると“先細り”しかしないことは、いまの世間社会が証明しているように思います。
一方、個人ならば「己のため」であることを尊重することで、先細りではなく、逆に個性が形作られ、増していくのではないでしょうか。
もちろん、穏やかな生活が送れるよう、社会的なルールに沿った生き方は求められます。
その枠の中で、自己表現ができる境遇や時間を、もっと大事に思わなければもったいないし、そう自覚できれば、時間の使い方も変わってくると思います。退屈とは無縁になっていくと思います。
なお、私が思うに、個人の行動が、他人のためになるかどうかは、“結果”をもって当てはめるものであって、始める前から「他人のために私は行動します」のセリフを言うことは、悪いことではないですが、別に表現しなくてもよい振る舞いだと思います。
個人が取った、ひとつの行為が、ある人には感謝され、ある人にはウザがられ、ある人には笑われてネタにされるというのが現実だと思うので、個人は余計に「己のため」を貫かないと、自身が空中分解したり潰れたりしてしまう気がします。
また、始める前から他人の反応を頭に描いてしまうと、その想像が期待値になってしまい、実際の結末と開きがあった時に、フクれてしまう原因を自分で作ってしまうことになると思います。他人には全く関係ない話なのに…です。
つまりは、自分がやりたいことをやるなら「己のためでヨシ!」と考えるようになったのですが、こんな単純なことに気付くのに私は数十年を要したわけです。
なので、楽曲配信の再生回数が伸びなくても全く気にする必要などないのだ…と心を落ち着かせながら、今日も、己が気にしている再生回数をチェックしている己がいるのでした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
