長く作曲をしていると、まったく気力が湧かない時が、たまに訪れます。
眠くてどうしようもない時は、素直にひと眠りして復活しますが、どうやってもダメで八方塞がりの時があります。
私の場合、そんな時は、ストックしているアイデアを聞き返します。それでも、ダメな時は、自分を説得して「待つ」のみです。
説得というのは、励ましとかではなく、むしろ逆で、「元々作曲をしてきたのはオマエさんではない。だからオマエさんが曲を作れないのは当たり前。本当の作者が戻ってくるまで待てばよい。」と説得します。
異様な世界に聞こえるかもしれませんが、これは私の経験談で、「意識」と「無意識」のうち、作曲に必要な情報を流し込んでくれるサプライヤーは「無意識」です。「意識」には、理論的な曲素材の組み立ては上手でも、楽曲自体を生み出す力はなく、あったとしても偶然の産物です。
「無意識」からドバドバ、1⃣「楽曲として成り立ちたがっている素材」と、2⃣「それを表現したいという衝動」が流れてくるまで、待てばよいのです。
ただ、このドバドバが、都合よく作業中に来るとは限らず、車の運転中とか、電車の中とか、突如流れてくるので、注意が必要です。
1⃣の「流れてきた素材」はスマホなどに記録して、2⃣の「衝動」は、その印象をイメージしておきます。
次に作業場で1⃣と2⃣とを元に、取り掛かってみれば、いつの間にか没頭してワンコーラス仕上がるでしょう。
何やら大したことをやっているように見えますが、そうでもなく、私がこれまで作った曲は、「意識」に偏った頭で無理くり捻りだした曲も多かった感じがします。
締め切りとか、オーダーとか、どうしても自分の都合だけで動けないような状況では、「意識」が勝った仕事をに頼らざるを得ないのですが、もちろん、これには個人差があると思います。
あとは、「無意識」からの流れ込みで作った曲は、あまりにも自己都合的な楽曲となる傾向にあるので、必ずしも他人様の好みに沿うものではないという点も、理解しておかなければなりません。
「無意識」で作った曲というのは、簡単にいうと、単なる「ワガママ」なのですが、このワガママのおかげで、窮地を脱することができたということも、忘れてはならないところです。
もし、心理学に詳しい方が近くに居たら、この状況を明確に分析いただけるのかと思いますが、幸か不幸か、私にはそのような知人友人は居なかったので、作曲をしてきた経験談として、自分の中で整理整頓しています。
少し前に、福島の作曲家「古関裕而」さんの生涯を題材にした連続テレビ小説「エール」が放映されましたが、終盤近くの回で、主人公である古関さんが、「依頼された曲を提供するのはこれで終わりだ。これからは自分のために自分だけが聴く曲を作って楽しんでいく。」という旨のセリフを言っていたと思います。
自作曲に他人からの評価など不要だったのだという、いつの日か、私が無意識のみで曲を作ることが出来たら、それが完全なる自己表現となるのでしょうかね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
