飽きもせずに続ける 《作曲》

私は、多分、飽き性なのですが、作曲に関しては長々と続けています。

作曲に「もう飽きた」と思ったことがなく、ひたすら「次の曲、別の曲」と作り続けています。

実に不可思議なので、ここで自分なりに考えてみたのですが、例えば、自分で作った過去の曲は、何度も聴くうちに、さすがに飽きます。

同じ曲を何度も聴くと、だんだん受け止める心の部分が鈍感になってきます。繰り返し聴くうちに、最初聞いたときの心の動きと「印象」は、もはや再来しません。

これは、作曲の最中も同様で、同じセクションを代り映えしないまま繰り返し聴いていると嫌気がさしてきますが、逆にその感覚を利用しているのでは?…と思ったのです。

ワンコーラス目では初期に聴いた「印象」を基準としてフレーズやアレンジを置いてみて、サビ明けの2回り目からは、飽きを回避すべくバリエーション変化をさせるとか、作曲とは違う感性での「印象」を使いこなしています。

自分の曲を「飽きちゃったな」と他人が聴いて思ったかのように、自分が疑似体験しながら、「飽き」を避けるように曲の進行に新鮮味を与えていくのです。

過去の曲やフレーズには「飽き」がバンバン来ますが、新鮮味を与える作業には「飽き」は当てはまりません。これが、飽きずに作曲を続けられている理由なのだろうと思ってみました。

つまり、曲自体に対する「飽き」を曲作りに反映させることで、『新しいものに出会うことができる』から、作曲を続けたくなるのだと思います。実際には、曲に対する「飽き」は感じていて、心の中に「印象」として残しているのです。

なので、「もう飽きちゃったな…」と思った時に、単に過去曲に飽きているだけなら、曲に新鮮味を与えた感激を忘れていないなら、その「印象」を思い直して、何度でも再開できるはずです。「印象」は、飽きとは無縁だからです。

でも、「曲に飽きる」というと、作者やアーティストに悪い気がしがちですが、「お腹いっぱいになるまで与えてくれた」と思えば、“ありがたみ”があると思います。

音楽は、争わずに、奪うことなく、いくらでも、お腹いっぱい与えられる無限の栄養源だと思います。

曲に「飽きた」ということは、それだけの空腹を満たしてくれたということなので、作者にとっては歓迎すべき感想ではないでしょうか。

なので、音楽の本質は、競争とか略奪とかの対極にあってほしいなと思うのですが、他人にあって自分にはないものを追い求める性(さが)が、そうはさせていないのかもしれません。

そういう私は、今日の食材を調達するため、近所の激安スーパーにて、割安の野菜を手に入れるため、多種多様な人々とのバトルを繰り広げる自分の性を見るのでした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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