兆しよ、ありがとう 《作曲》

普段の生活でも、作曲でも、浮き沈みの「波」を感じるものです。

調子が良いなと思った矢先に、つまらないトラブルに見舞われたり、調子が悪いなと思っていると、ふと何かのきっかけで浮上し始めたり、これら一連の流れは一体何なのだろうと考えても、とても見当がつきません。

生きてゆくとは、そういうものだと割り切るしかないのでしょうが、作曲とは、この先、今までと同じように曲ができるかどうかの保証が全くないという不安もあって、心が追い付かない時もあるのが現実です。

そんな、得体の知れない「波」が繰り返す中で、ホッ…とひと息つけるのは、上向きになった時よりも、その一歩手前の「上向きの兆し」が見えた時ではないでしょうか。

カンカンの日照りよりも、雨嵐が収まって雲の切れ間から一筋の陽射しが見え隠れした時の方が、太陽にありがたみを感じて、嬉しく安堵するのではないかと思います。

どこかの怪しげなカウンセラーのような書きぶりですが、書き残したかったのは、作曲において八方塞がりになった時こそ、間もなく浮上の兆しが現れれば、心から安堵し感謝する時間がやって来るので、自分の作曲に対する熱意を自覚できる瞬間の前触れとして楽しみに待とうということです。

この「兆し」を、どれだけ喜べるかで、取り組んできた本気度が問われるているような気がします。

もし、作曲が、自分にとってどうでもいいことならば、浮上の兆しがあっても、薄~く感じる程度でサラッと当たり前の出来事のように流してしまうでしょう。

一方、作曲が、自分にとって切実な自己表現の手段であれば、浮上の兆しは、この上ない最高の賜物の到来に感じると思います。

何が異なるのだろうといえば、「波」の大きさなのだろうと思います。振れ幅が大きいほど、高低の差が大きくなり、深く沈むこともありますが、逆に高みに一気に昇る境遇にもなれるということは、作曲とは、その高低差を生み出せる威力を持っていて、これも醍醐味のひとつになっているのだろうと考えます。

今や、スマホだけで色んな情報を手元に寄せることができますが、SNSなどで華麗で華美な自分自身を発信をしているのは、この「波」の上半分だけを寄せ集めたもの、または作ったものと感じます。

上半分だけの「波」など、DAWで波形をいじったことのある人なら「あり得ない」と分かるでしょうが、他人に自分が上半分だけの世界にいるような錯覚を与えて、それで満足している発信者がいるということが分かると思います。

上半分があれば下半分もあるのが、正しい「波」であって、それが真実だと思います。下半分があれば上半分も必ずある…。

そう考えていけば、作曲で思い悩んで沈んでしまうことは、実は、作曲に対する真剣さの裏返しであり、いずれ訪れる上向きの兆しが来た時に、本当に自分にとって大切にすべきものが実感できるというボーナスデーの予告でもあると思います。

ただ、どんな「波」も、ニュートラルの「無音」に落ち着こうとしているんですよね。

この秩序に真っ向から立ち向かうことができるのは、「波」が揺れている今の瞬間だけなのかもしれません。逃すも自由、掴むも自由という中で、音楽の波を起こすことを選んでいる自分は、ひたすら楽曲を残すことに喜びを感じる狂人のひとりなのでしょう。

世間的には、一切、波風を立てない凡庸な凡人として過ごしておりますが…。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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