『魂胆』と聞くと、悪だくみのように聞こえますが、そうとも限らず、様々な楽曲を聴いてみると、2MIXの音像の裏に、制作側の魂胆や背景が見え隠れする気がします。
総じて、曲を生み出すということは、音楽というものを盛り上げる方向に向かっているので、良し悪しを語ること自体に意味が無いのですが、作曲している立場からすると「どんな心情があれば、こんな素敵な曲を生み出すことができるのだろう…。」と息を呑む曲に出会うことがあります。
例えば、1曲の中で、ワンフレーズの「ココを聴いてほしい!」という箇所があるとすると、その部分をMAX状態の心情で聴かせるために、時間軸を使って耳と心を誘導していくという『魂胆』が分かる時、尊敬の眼差しを送りたくなります。
そういう作り方をしている作家さんだと、だいたい、他の曲も似たように、快いアプローチになっている感じがして、曲のプロポーションがキレイで美しさを纏っている印象を受けます。
ただ、どうしても、楽曲に社会的・経済的な都合での制作意図があって、美しさを犠牲にしなければ成り立たないような楽曲もたくさんあると思いますが、そういう曲ほど聴く人へのメッセージをたくさん含んでいるので、メッセージで心を動かすことに楽曲が介在していることを思えば、音楽の存在を高めていくことにつながっていると思っています。
さて、この『魂胆』は、曲作りには欠かせない出発点だと思いますが、経験の積み重ねとか、情報埋蔵量の多さなど、他人に自慢できるようなボリュームがいくらあっても『魂胆』を生み出すことは出来ないのだろうと思います。
例えば、「あ、キレイ」という感受性は、全てをそぎ落とした“素”の反応であって、キレイなものをたくさん知っているからキレイと思えるわけではないと思います。
たくさん知っている中で見つけた、ひとつのキレイが、単なる比較・評論になってしまえば、感激や感嘆とは違うものになるでしょう。
さらに、「キレイを自分も生み出してみたい」という『魂胆』は、その「キレイなもの」を感じていないと、行き先にたどり着けないので、生まれてすら来ないかもしれません。
そう考えると、この『魂胆』とは、あって当たり前ではなく、とても有難いものに感じてきます。
楽曲などの自己表現では、「魂胆見え見え」の方が、その作者の意図を知ることが出来、奥行きを楽しむことができるのではと思います。
そんな、見え見えの曲を、末永く作り続けていきたいものです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
